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1253年から発生したラグライナ帝国との戦いでは、エヴェリーナは(幾つかの例外があったものの)終始一貫して大陸各国の情報収集と共和国の後方支援活動に携わった。だが、フェルグリアの戦いで帝国軍の捕虜となった彼女は、その手腕と実力に対して警戒感を抱いていたエル・ローレライナの手によって帝都ラグライナに移送され、1年以上もの間、帝国での軟禁生活を余儀無くされる。軟禁中にラヴェリアの死を知った際、彼女は一筋だけ涙を流し、こう語ったと伝えられる。
「そうですか……分かりました」
エヴェリーナの帰国が認められたのは1257年第1周期のこと。その際、彼女は軟禁中に作成した歴史書の写本を多数持ち帰っている。後世の歴史家からは、共和国への道中、彼女がエルをはじめとする帝国政府高官と意見交換を行ったのではないかと言われているが、その真偽は確かではない。
共和国に帰国すると、エヴェリーナは新しい評議会議長レディス・フローランスの要請により、空席となっていた情報活動委員会委員長に就任(前任者はラヴェリア暗殺事件直後の戦乱で反レディス派に属し処刑されていた)、引き続き共和国政府の諜報活動を総括することになった。また、同年第4周期には、恋人であったカオス・コントンと結婚、ちょっとマニアックながらも平和な夫婦生活が始まった。
1257年第9周期、皇帝セルレディカ・フォン・ラグライナの崩御の知らせに接した時、彼女はこう呟いたと伝えられる。
「後継者が決まらぬまま崩御してしまった……。これで『最悪のシナリオ』が確定したわね……」
その後、事態は彼女の言葉通りに展開する。1258年には、ラグライナ帝国の内部分裂を発端に発生した大乱が始まる。戦争中、彼女は共和国のスパイマスターとして辣腕を振うものの、同年第9周期に発生したゴゥド・ゲーテの反乱に同調することを拒否したことが原因で親レディス派の人間と判断され、レディスと共に幽閉されてしまう。同年中に救出されたエヴェリーナではあったが、幽閉中に受けた拷問が原因で体調を崩し、委員長職をオズワルド・ベステロスに譲ると、本人は評議会議員職を辞し政界から身を退く。
政界から身を退いていた1260年第3周期、エヴェリーナは双子アリアとカールを出産する。また、この時期から彼女はラグライナ帝国や共和国南部で収拾し持ち帰った多数の文献を元に歴史研究に没頭、1262年第7周期に論文『コーリア王国滅亡に関する諸分析』を公表した。本人によると「子育ての合間を縫って行った暇潰し」程度の軽い気持ちだったらしいのだが、この「暇潰し」が予想以上に好評を博し、彼女は図らずも歴史家として第2の人生を歩み始めることになる。
1268年、ガルデス共和国がアレシア連邦に参加すると、エヴェリーナはカオスと共に首都グラディエストへ移住する。そして彼女は連邦政府の招聘を受けてグラディエスト学園(後のグラディエスト大学)の教授に就任し、学園で政治学・歴史学を教える傍ら、1200年代のアレシア大陸の歴史と戦乱の記録を歴史書の形で残すプロジェクトを指揮することになった。また、1281年から1294年までの13年間、彼女は大学に改組されたグラディエスト大学(旧学園)の初代総長に就任、連邦議会の公聴会に出席するなど政治活動も再開している。
1294年第5周期、グラディエスト大学の史書編纂が終了し、ルースの乱からクレアムーンの連邦参加までの94年間を扱った歴史書『アレシア戦国記』が上梓される。この『アレシア戦国記』は、分析の精緻さや資料の膨大さ、事実と分析結果のみを淡々と述べる記述形式など複数の理由から、同時代や以降に記された歴史書の中では異彩を放っており、後世では「読み物としての史書」ではなく「巨大なデータベースとしての史書」として扱われるようになった。これは、散逸しかかっていた戦国時代の資料収集・整理を最優先させるというエヴェリーナの編集方針が強く影響している。
エヴェリーナ自身は『アレシア戦国記』の上梓を見届けてから大学を退官、1人の歴史家として平和な老後を送った。連邦政府に残された記録によると、その没年は1305年(享年78)、死因は悪性流感に起因する肺炎となっている。
余談だが、彼女の直系の子孫であるクリスティナ・ウェイクロフ(第7代ラコルニア帝国皇帝の実母)は、先祖に当たるエヴェリーナのことを次のように評している。
「私の御先祖様のことは、『スパイマスター』ではなく『アナリスト』と呼んだほうがいいかもしれません。本人がそれを望んでいるかどうかは知りませんけどね」
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